I. 絵本


1. 絵本の概念

 絵本および画譜は、必ずしもその概念のはっきりしたものではないが、ここでは一応、絵画を中心的主題として制作されたもので、その絵画の興趣を鑑賞するための本の総称であると規定することにしたい。したがって、たとえば生け花本、料理本、服飾本などの実用書のうち全面的に絵画で占められるものであっても、明らかに主題が別のところにある場合には、ひとまず除外することとする。絵入り本についても、たとえ絵本の語を書名に冠してあっても、テキストが主で挿し絵が従である場合には、絵本の範囲には入れないこととし、そのため赤本(あかほん)、青本(あおほん)、黄表紙(きびょうし)、合巻(ごうかん)などの草双紙(くさぞうし)は、文学のテキストの方を尊重して除外するが、絵俳書(えばいしょ)や狂歌絵本の一部のように、絵画の賞翫(しょうがん)を第一義とするものは、この限りではない。また便宜上、印刷された本すなわち版本に限ることとし、書画帖や習作帖のようなものでも、写本(しゃほん)であれば除外することにする。

 絵本の分類としては、必ずしも境界が明確でないこともあるが、やはり絵本と画譜とに大別する方法が一般的であろう。両者には、画風、画者などの問題以外に、出版や流通の面でも際立った相違が認められる。すなわち絵本が、草紙屋(そうしや)あるいは地本問屋(じほんどいや)と呼ばれる本屋によって取り扱われるのに対し、画譜は書物屋 (しょもつや)あるいは書物問屋(しょもつどいや)によって取り扱われるのが一般的である。草紙屋は、版株(はんかぶ)を伴わない浄瑠璃本(じょうるりぼん),評判記(ひょうばんき)、芝居本や草紙類、それに絵本、浮世絵などを扱う本屋のことで、京都、大坂ではその代表格である山本九兵衛(やまもときゅうべえ)、鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)などをはじめ、本屋仲間(ほんやなかま)の内に組み込まれていたが、江戸では草紙屋よりも、地本屋という呼称が一般的で、しかも書物仲間(しょもつなかま)とは別の組織を持っていた。特に明和期 (1764-1772) の江戸錦絵(にしきえ)の誕生以降は、その勢いはめざましいものがあり、上記の出版物の他、洒落本(しゃれぼん)、黄表紙(きびょうし)などにも対象を拡げつつ、老舗(しにせ)の鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)はじめ、和泉屋市兵衛(いずみやいちべえ)、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)、西村与八(にしむらよはち)などが競って活発な出版活動を展開するに至る。地本(じほん)とは、上方(かみがた)からの下り本(くだりぼん)に対して、土地固有の本の意味であり、その流通も基本的には、江戸だけに限られていたと考えられる。しかし、上方の絵本類には、江戸で流通するものもあったし、寛政の改革以降は、蔦屋重三郎のように書物仲間にも加入する地本屋が出てきたり、名古屋の書物屋永楽屋東四郎(えいらくやとうしろう)が絵本出版に参画するなど、両者の区別は必ずしも明確ではない面もある。同時に寛政二年 (1790) には出版取締り令の強化が計られ、地本屋も輪番制(りんばんせい)の月番行事(つきばんぎょうじ)を置き、仲間による自主検閲(じしゅけんえつ)によって版行の可否を決めれるようになり、とくに錦絵には版下(はんした)の段階で改印(あらためいん)あるいは極印(きわめいん)が押され、刻印(こくいん)されることになったが、まま書籍類への適用例もある。ついで天保十三年 (1842) には、三都の本屋仲間が解散させられ、改め掛りの名主に提出したのち町年寄り(まちどしより)から認可を受ける手続きに変わるが、嘉永四年 (1851) に本屋仲間が再興され、旧に復した。



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2. 江戸初期(慶長〜寛永)

 さて近世初期は、絵本といっても挿し絵を主体した絵入り本は多いが、それは絵本が日本の伝統的な文学の一ジャンルである、絵巻(えまき)や奈良絵本(ならえほん)などの絵草紙(えぞうし)が冊子化することによって発達したもであることに原因があろう。ただし奈良絵本は近世中後期まで制作されており、その中に有力な絵入り版本を手本とするという逆転現象もまた顕著にみられる。ともかく原初的には、絵巻、奈良絵などから発生した経緯を持つためか、絵本として独立した後も、ほとんどが何らかの文学的テキスト性を付属しており、純然たる絵画はきわめて少ないといっても過言ではない。絵師の多くは土佐派(とさは)、狩野派(かのうは)の流れを引く人々であるが、主としてやまと絵系の絵師によるものが多い。早いものでは慶長年間 (1596-1615)、嵯峨本(さがぼん)と称する、料紙(りょうし)や装訂に意匠を凝らした豪華本が制作され、日本の古典文学も取り上げられたが、分けても角倉素庵(すみのくらそあん 1571-1632)の版下(はんした)と言われる『百人一首(ひゃくにんいっしゅ)』は、同書としては最古の歌仙絵(かせんえ)を有することでも画期的な意義を持つ。また本阿弥光悦(ほんあみこうえつ 1558-1637)が版下を書いたことで、とくに光悦本(こうえつぼん)とも称される『三十六歌仙( さんじゅうろっかせん )』[P1] は、土佐光信の男、光茂(みつもち 1469-?)画と言われ、色紙絵(しきしえ)の流行を背景に藤原公任(ふじわらのきんとう 966-1041)撰の同書に基づき、歌仙絵(かせんえ)に歌を散らしたものである。文学書としての性格が色濃いが、歌仙絵というやまと絵の代表的画題の典型的な例として注目され、異版の存在も指摘されている。また同じ慶長十三年 (1608) に刊行された嵯峨本『伊勢物語(いせものがたり)』は、絵入り本であり、絵本の範疇(はんちゅう)には入れがたいが、やはりやまと絵の画題の代表である伊勢物語絵の規範を示しており、以後の絵入り本の挿し絵のほとんどの図柄がこれを踏襲(とうしゅう)することからも、その存在意義は大きい。

 ついで寛永年間 (1624-1644) に入って、まず同二年 (1625) に『御馬印(おうまじるし)』が、ついで同三年 (1626) に『寛永行幸記( かんえいぎょうこうき )』が、同四年 (1627) に『塵劫記 ( じんこうき )』がそれぞれ刊行された。いずれも狭義(きょうぎ)の絵本の概念には入らないが、絵入り本の印刷文化史上、逸することのできないものである。すなわち『御馬印』は日本の印刷史上、最古の色摺り本といわれるものであり、『寛永行幸記』は巻子本(かんすぼん)仕立てで、文字、画ともに古活字(こかつじ)による組み版であるところが画期的である。さらに『塵劫記』は、刊記を有するものとしては最古の三色摺りであるというぐあいである。その他、舞の本、古浄瑠璃(こじょうるり)や仮名草子(かなぞうし)のやまと絵風の挿し絵に朱と緑の絵具を塗った丹緑本(たんろくぼん)も寛永から万治年間 (1658-1661) にかけて盛んに行われた。これらの色摺りや手彩色(てざいしき)の例によって、早くから絵の彩色に工夫が凝らされて来たことがわかる。またやまと絵風ということでは、承応三年 (1654) に刊行された絵入り『源氏物語 ( げんじものがたり )』、ついで寛文元年 (1661) の梗概書(こうがいしょ)『十帖源氏 ( じゅうじょうげんじ )』が、代表的なものと言ってよかろう。前者を刊行したのは、京都の蒔絵師(まきえし)で、歌人の山本春正(やまもとしゅんしょう 1610-1682)で、画も春正の手になると言われ、後者は同じく貞門(ていもん)の俳人雛屋立圃(ひなやりゅうほ1595-1669)の作画である。ただし仮名草子でも北村季吟(きたむらきぎん1624-1705)訳の『仮名列女伝( かなれつじょでん )』などの挿し絵のように、その作品内容次第で、漢画風のものも行われていた。また寛永期には、絵暦(えごよみ)や江戸絵図の類も出版をみ、さらに明暦四年 (1658) の『京童(きょうわらべ)』、寛文二年 (1662) の『江戸名所記(えどめいしょき)』などの地誌の刊行が相次ぐが、それらにも華麗な名所絵(めいしょえ)が描かれており、以後の地誌にさまざまな影響を及ぼす。



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3. 江戸前期(正保〜正徳)

 さて、寛文年間 (1661-1673) の特色として挙げられるのは、専門的挿し絵師である江戸の菱川吉兵衛師宣(ひしかわきちべえもろのぶ ?-1694)と京都の吉田半兵衛定吉(よしだはんべえさだよし)の出現であろう。とくに師宣の存在は甚大(じんだい)であり、岩佐又兵衛(いわさまたべえ 1577-1650)らの浮世絵の伝統にのっとりながらも独創的で、雅興に溢れた優美な世界は、以後の一規範となる。無款(むかん)で描いた挿し絵の数は数え切れないが、寛文十二年 (1672) の『武家百人一首( ぶけひゃくにんいっしゅ )』でその名を明記して以来、『江戸雀( えどすずめ )』、『百人一首像讃抄( ひゃくにんいっしゅぞうさんしょう )』その他、吉原評判記(よしわらひょうばんき)などの数多くの版本の挿し絵を手掛けた。延宝六年 (1678) の『卜養狂歌集( ぼくようきょうかしゅう )』や天和二年 (1682) の『貞徳狂歌集( ていとくきょうかしゅう )』は狂歌と絵の結びつきの早い例として注意され、貞享元年 (1684) には江戸版の『好色一代男( こうしょくいちだいおとこ )』の挿し絵も描いた。また師宣は、署名に「大和絵師菱川師宣(やまとえしひしかわもろのぶ)」などと書くことが多く、やまと絵に対する意識にはきわめて根強いものが有ったことは周知の通りで、その意識は奥村政信 (おくむらまさのぶ 1686-1764)などによっても踏襲された。師宣が手掛けた最初の絵本と称すべきものは、延宝八年 (1680) の『大和絵づくし( やまとえづくし )』であるが、やまと絵風絵本の嚆矢 (こうし) というべきものであるとともに、「大和絵師」の意識が然らしめた典型的作品というべきものである。以後、師宣は、『屏風掛物絵尽 (びょうぶかけものえづくし)』[P2]、『美人絵づくし( びじんえづくし )』、『団扇絵づくし( うちわえづくし )』他、精力的に絵本の著作を続けるが、書名に「絵づくし」という語を冠することが多いことを注意しておく必要がある。貞享から元禄年間 にかけては、『鹿の巻筆( しかのまきふで )』や『役者絵づくし( やくしゃえづくし)』などの古山師重(ふるやまもろしげ)や、地誌『江戸通鑑綱目( えどつがんこうもく )』などの石川流宣(いしかわとものぶ)ら、師宣の門人の活躍も目立つようになり、さらに『やまとすみ』や『和国百女( わこくひゃくじょ )』のように師宣画とありながら、実は息子の師房(もろふさ)の作画と言われるものも出てくる。菱川派(ひしかわは)の勢力が大きくなってくるとともに、工房(こうぼう)のようなものが形成されて、集団で絵画の制作がなされたとも考えられている。また京都から下ってきた鳥居清信(とりいきよのぶ 1664-1729)は、菱川派の影響を受けながらも独自の画風によって絵本『風流四方屏風(ふうりゅうよもびょうぶ)』の他、絵入り狂言本(きょうげんぼん)を手掛けて、後に鳥居派(とりいは)の祖と仰がれた。


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4. 江戸中期(享保〜安永)

 宝永年間 (1704-1711) に入ると、清信に私淑しながら独学で一家をなした奥村政信 [P3] が登場し、『男色比翼鳥(なんしょくひよくどり)』ほか浮世草子の挿し絵を主に手掛けるとともに、絵本についても享保十九年 (1734) の『絵本金竜山浅草千本桜(えほんきんりゅうざんせんそうせんぼんざくら)』[P4]、元文五年 (1740) の『絵本小倉錦(えほんおぐらのにしき)』その他、古雅(こが)でめりはりの効いた作品を多数遺している。政信と双璧をなすのが、狩野永納(かのうえいのう 1631-1697)の門より出た、京都の西川祐信(にしかわすけのぶ 1671-1750)である。祐信ははじめ京都の書肆(しょし)で、浮世草子(うきよぞうし)の作家でもあった八文字屋自笑(はちもんじやじしょう)に協力して狂言本(きょうげんぼん)、浮世草子などの挿し絵を描くことから出発して評判を得、さらに小袖(こそで)の雛形本(ひながたぼん)に手を染める。絵本の著作は、享保八年 (1723) の『百人女郎品定(ひゃくにんじょろうしなさだめ)』 [P5] が初期のもので、以後同十六年 (1731) の『絵本常盤草(えほんときわぐさ)』ほか多数を遺し、柔和な筆致(ひっち)により、徹底して女性の風俗を描き尽くした。その他、後述のように享保期以降、狩野派の流れを汲む大坂の絵師による絵手本(えでほん)が多数出版されるほか、鳥羽絵(とばえ)の語を冠する絵本が、大坂の書肆より出版されるのもこの時期のことである。そのうち享保九年 (1724) に『鳥羽絵筆拍子(とばえふでびょうし)』を出した長谷川光信(はせがわみつのぶ)も大坂の絵師で、祐信風の風俗人物画をよくし、絵本の著書も多い。なお享保期 (1716-1736) になると、丹緑(たんろく)による筆彩(ひっさい)に代わり、紅色(べにいろ)を主体とするいわゆる紅絵(べにえ)による筆彩が、墨摺り絵(すみずりえ)に施されるに至り、当時すでに存在した浮世絵の紅摺り絵(べにずりえ)とともにならび行われた。この筆彩は、おもに政信や清信などの挿し絵や絵本にみられるもので、版元(はんもと)の下請け(したうけ)による施彩(しさい)といわれるが、紅色のほか数種の色を混じた後代のものや、いたずら書きとみなされるものも混入しており、その区別に注意を払う必要がある。





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 ついで宝暦年間 (1751-1764) になると、大坂では月岡派(つきおかは)の祖であり、肉筆美人画を得意とした月岡雪鼎(つきおかせってい 1710-1786)の活躍が目立ち、宝暦九年 (1759) の『絵本高名二葉草(えほんこうみょうふたばぐさ)』ほか多数の絵本を手掛けている。しかし時あたかも文化東漸の時期に当たっていたためであろう、江戸の絵本もふたたび活溌に出版されるようになり、大坂と拮抗(きっこう)して多様な作者の輩出をみる。まず宝暦二年 (1752) 刊の『画本図編(えほんずへん)』を著した英一蜂(はなぶさいっぽう 1691-1760)は、(松尾)芭蕉(まつおばしょう 1644-1694)とも交流のあった英一蝶(はなぶさいっちょう 1652-1724)の門人で、洒脱(しゃだつ)な風俗画(ふうぞくが)を得意とし、明和七年 (1770) に『一蝶画譜(いっちょうがふ)』を出した鈴木隣松(すずきりんしょう 1732-1803)らとともに、英派(はなぶさは)の絵画の普及に尽くしている。浮世絵師の絵本への参画としては宝暦四年 (1754) 刊、西村重長(にしむらしげなが)の『絵本江戸土産(えほんえどみやげ)』が、江戸趣味の走りとしてもてはやされ、その門人石川豊信 (いしかわとよのぶ 1711-1785) は紅摺り (べにずり) の美人画を得意とするが、同二年 (1752) に『絵本俚諺草(えほんことわざぐさ)』などを出すなどして、活躍の場を絵本にも拡げた。またこの時期の絵本史の上で特記すべきこととして、勝間竜水(かつまりょうすい 1697-1773)が宝暦十二年 (1762) に出した絵俳書(えばいしょ)『海の幸(うみのさち)』の存在がある。すなわち同書は多色摺り (たしょくずり)絵本のごく早い例であり、明和二年 (1765) に多色刷りの錦絵が摺り出される以前の絵本として、画期的な意味を持つ物である。加えて風俗美人画の代表的絵師である鈴木春信(すずきはるのぶ 1725?-1770)がはじめて絵本に手を染めたのが、宝暦十二年 (1762) の『絵本古金欄(えほんこきんらん)』であることも記憶されるべきことで、いずれ明和六年 (1769) 刊の『春の錦(はるのにしき)』 [P6] 以下の華麗な色摺り絵本が続々と刊行され、その可憐な相貌(そうぼう)の女性と古典趣味の織り成す世界が大いに人気を集めることになる。


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 明和年間(1764-1772) には、色摺り絵本の出版がますます盛んになるが、なかでも明和七年 (1770) 刊の『絵本舞台扇(えほんぶたいおうぎ)』、同じく『青楼美人合(せいろうびじんあわせ)』、同じく『彩画職人部類(いろえしょくにんぶるい)』などはそれぞれ特筆すべきものである。まず『絵本舞台扇』は、勝川春章(かつかわしゅんしょう 1726-1792)と一筆斎文調(いっぴつさいぶんちょう)の合作で、色刷り役者絵本の傑作というべきもの。『青楼美人合』[P7] は、春信画の新吉原の美人画絵本であり、美人合という趣向の先駆けというべきものである。『彩画職人部類』は、上方より東下した橘岷江(たちばなみんこう)が、合羽摺り(かっぱずり)や吹きぼかしという彩色方を駆使(くし)して制作した絵本として評判となった。ついで安永年間 (1772-1781) に入って、同三年 (1774) 刊『石燕画譜(せきえんがふ)』、同五年 (1776) 刊『百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)』[P8] などを著作した鳥山石燕 (とりやませきえん 1713-1788) は、狩野派に学び俳諧(はいかい)をも嗜んだ(たしなんだ)町絵師で、その斬新(ざんしん)で奇想天外(きそうてんがい)な絵風は後世へ顕著な影響を与えた。また同四年 (1775) 刊『絵本世都の時(えほんよつのとき)』[P9] 、同五年 (1776) 刊『青楼美人合姿鏡(せいろうびじんあわせすがたかがみ)』[P10]など、北尾重政(きたおしげまさ 1739-1820)の絵本 [P11] の出版が始まるのもこの時期であるが、重政は多くの門下を輩出しながら、絵本、絵入り本に息の長い活動を続けた挿し絵の代表的絵師といえる。『青楼美人合姿鏡』は春章との合作であるが、その美麗、清新な仕上がりは、春信の『青楼美人合』を超えるものがある。また春章の同四年 (1775) 刊『錦百人一首あづま織(にしきひゃくにんいっしゅあづまおり』は、墨摺り、色摺りの両様があるが、書家による和歌ともども典雅(てんが)な気品を備えた一作と言えよう。

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5. 江戸後期(天明〜文政)

 さて天明元年 (1781) の鶴岡芦水(つるおかろすい)画『隅田川両岸一覧(すみだがわりょうがんいちらん)』は、名所を扱った本格的絵本として注目すべきものであるが、安永末年 (1781) には、絵本ではないながら、竹原春朝斎(たけはらしゅんちょうさい ?-1800)画の『都名所図会(みやこめいしょずえ)』が刊行され、この頃から名所絵も取り上げられるようになり、天明七年 (1787) の万象亭 (まんぞうてい、または森島中良(もりしまちゅうりょう)1754-1810) と北尾政美 (きたおまさよし、または 鍬形(くわがたけいさい)1764-1824) の共作『絵本吾妻鏡(えほんあずまかがみ)』へと繋がる。また天明四年 (1784) の『新美人合自筆鏡(しんびじんあわせじひつかがみ)』 [P12] は、戯作者山東京伝(さんとうきょうでん)こと北尾政演(きたおまさのぶ 1761-1816)の作画で、書美を交えた吉原美人画の極めつけと言える。政演は、同六年 (1786) には宿屋飯盛(やどやめしもり 1753-1830)との共作で狂歌師の肖像集『吾妻曲狂歌文庫(あずまぶりきょうかぶんこ)』を出版しており、その画興(がきょう)もさることながら、企画の斬新さが受けて、以後、追随作(ついずいさく)が数多く出された。喜多川歌麿(きたがわうたまろ 1753?-1806)の絵本も、天明期 (1781-1789) から盛んに発刊されるようになるが、中でも蔦屋重三郎 (つたやじゅうざぶろう、または 耕書堂(こうしょどう)1750-1797) から天明八年 (1788) に出された『画本虫撰(えほんむしえらみ)』は、金銀、雲母摺り(きらずり)など贅(ぜい)と美の限りを尽くした多色摺り豪華絵本として時好にも適い、大いにもてはやされた。本書はそののち翌寛政元年 (1789) の『狂月坊(きょうげつぼう)』[P13], [P14]『潮干のつと(しおひのつと)』、同二年 (1790) の『銀世界(ぎんせかい)』など一連の狂歌絵本の出刊へと繋がり、歌麿の洗練された甘美な世界に対する人気を相俟ち(あいまち)、絵本史上の一隆盛期を築いた観がある。しかし同三年 (1791) には、いわゆる寛政の改革が出版界にも及んで、版元の蔦屋が身上半減という重い刑を科せられたことで、豪華絵本の刊行も一時、急速に終息に向かった。ふたたび活気を取り戻すのは、狂歌の春興帖(しゅんきょうじょう)『春の色(はるのいろ)』が出された同六年 (1794) 辺りからで、松平定信(まつだいらさだのぶ 1758-1829)が老中職を辞し、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)の浮世絵が摺り出された時期とほぼ合致(がっち)する。代表的なものでは、同七年 (1795) の春章画と言われる『絵本松のしらべ(えほんまつのしらべ)』、同一〇年 (1798) の歌磨、北斎、重政など合作の『男踏歌(おとことうか)』などがあるが、絵の題材としては、穏和で古典的なものが目立つ。他に寛政末期の絵本のうち特筆すべきものに、同十一年 (1799) 刊の政美(まさよし)の『人物略画式(じんぶつりゃくがしき)』があり、略画の絵手本の嚆矢(こうし)として人気を博し、翌年 (1800) 出た『山水略画式(さんすいりゃくがしき)』などとともに、版を重ね長く行われた。


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 享和年間 (1801-1804) になり、同元年 (1801) に鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし 1756-1829)の『錦摺女三十六歌仙(にしきずりおんなさんじゅうろっかせん)』が出、幼女等の華麗な書とともに評判となる。また絵本史上の最大の作家である葛飾北斎(かつしかほくさい 1760-1894)も本格的に活躍を始め、同元年 (1801) の『隅田川両岸一覧(すみだがわりょうがんいちらん)』、同三年 (1803) の『絵本狂歌山満多山(えほんきょうかやままたやま)』[P15] など、紅嫌いの名所風俗絵本を矢継ぎ早に世に出すが、同二年 (1802) の『潮来絶句(いたこぜっく)』[P16] は風俗紊乱(ふうぞくびんらん)の廉(かど)で絶版に処せられた。さらに同四年 (1804) 、歌麿が十返舎一九(じっぺんしゃいっく 1765-1831)と共作した『吉原青楼年中行事(よしわらせいろうねんじゅうぎょうじ)』も風俗絵本として出色(しゅっしょく)の作と言えよう。文化年間 (1804-1818) に入ると、本画師による画譜の盛行に圧倒されたためか、浮世絵系絵本の分野ではしばらく目立った作品が影を潜めるが、文化九年 (1812) に北斎の『略画早指南(りゃくがはやおしえ)』が永楽屋東四郎 (えいらくやとうしろう)、または東壁堂(とうへきどう)1845-1894) から出された辺りから、略画の絵手本の刊行が活発となり、その分野では先輩格の政美も同一〇年 (1813) に『草花略画式(そうかりゃくがしき)』 と『鳥獣略画式(ちょうじゅうりゃくがしき)』を須原屋市兵衛(すはらやいちべい)から刊行して対抗した。北斎はさらに同十一年 (1814) から文政二年 (1819) にかけて『北斎漫画(ほくさいまんが)』[P17] を続刊し、大いに流行したが、大坂の合川岷和(あいかわみんわ)の『漫画百女(まんがひゃくじょ)』や渡辺崋山 (わたなべかざん 1793-1841) の『一掃百態画(いっそうひゃくたいが)』も北斎や政美の略画の影響下にあると言ってよかろう。また同じ十一年 (1814) 序刊の『北斎写真画譜(ほくさいしゃしんがふ)』は、おそらく序者の岸本由豆流(きしもとゆずる 1788-1846)の入銀による自費出版と思われるが、書名に画譜という語を用いており、浮世絵系絵師の意識の変化という点からも注意される。文政期 (1818-1830) では同六年 (1823) の柳川重信(やながわしげのぶ 1787-1832)画の『絵本ふじばかま』、同一〇年 (1827) の歌川国貞 (うたがわくにさだ 1786-1864) 画の『夏の富士(なつのふじ)』、同十一年 (1828) の渓斎英泉 (けいさいえいせん 1791-1848) 画の『画本錦之嚢 (えほんにしきのふくろ)』[P18]、大石真虎(おおいしまとら 1792-1833)画の『国風麁画(こくふうそが)』、それに岳亭定岡(がくていていこう、または岳亭丘山 (がくていきゅうざん))狂歌絵本などがあるが、この時期以降の歌川派を中心とする絵師の特色として、一枚摺りの浮世絵や読本、合巻それに狂歌本 [P19] の挿し絵を本業とすることが多く、絵本自体はあまり振るわなかった。



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6. 江戸末期(天保〜慶応)

 天保年間 (1830-1844) 以降の幕末期で見るべきものは、まず何と言っても同五年 (1834) に初編が出された『富岳百景(ふがくひゃっけい)』[P20] であり、本書は北斎晩年の渾身(こんしん)の力作と言ってよいものである。また同六年 (1835)、京都から出版された菱川清春(ひしかわきよはる 1808-1877)画の『銀河草子(ぎんがそうし)』の華麗さも捨てがたいものがある。ついで嘉永元年 (1848) の歌川芳重(うたがわよししげ)画の『鉢山図絵(はちやまずえ)』[P20a] は風俗に盆景を組み合わせた面白みが受け、同三年 (1850) の小本仕立て(こぼんじたて)の『絵本江戸土産(えほんえどみやげ)』 [P21] は、初代歌川広重(うたがわひろしげ 1797-1858)から二世 (1826-1869) に至って描き継がれ、慶応三年 (1867) まで続刊されるほどの人気を集めた。また安政四年 (1857) の歌川国芳 (うたがわくによし 1797-1861)の『国芳雑画帖(くによしざつがちょう)』は、武者絵を得意とする国芳の手軽な絵手本として行われた [P22] 。さらに万延元年 (1860)序刊の河鍋暁斎(かわなべきょうさい 1831-1889)画の『狂斎画譜(きょうさいがふ)』は、明治期になって本格的な活動を展開する暁斎が、いまだ合巻(ごうかん)の挿し絵などを書いていた頃に手掛けた風俗絵本である。また文久二年(1862) の橋本(歌川)貞秀 (はしもと(うたがわ)さだひで 1807-?) 画の『横浜開港見聞誌(よこはまかいこうけんもんし)』は、当時の異国趣味による横浜絵の流行に乗じたもので、その作画はほとんど貞秀の独壇場であった。